音楽が僕の?>  高橋教之

 

音楽を聞くようになって、もうどのくらいたったのだろう。中学2年の頃だから、28年ぐらいですか?長い年月ではないけど。今はラジオの深夜放送はあたりまえだけど、僕が中2ぐらいの頃、ラジオ...AM放送を中心に、深夜のラジオを聴くのが流行っていました。僕はバスケットをやっていたから周りの人ほど頻繁には聴いてはいませんでした。だから夕方から6時ぐらいから聴くことが多かったです。ミュンヘン・オリンピックのすぐ後だから1973年頃でした。カーペンターズもよくかかってました、ミッシェル・ポルナレフもよくかかってましたが、あまり当時は興味がありませんでした。そのかわり井上陽水やチューリップはよく聴き、だんだん好きになっていきました。その頃のぼくは、夢がありました。それはバスケットの選手になることでした、バスケットの強い会社、実業団チーム、当時は日本鋼管や松下電器...などで活躍する選手になりたかったのです。そのためには強い高校へ入り、強い大学へ入り、そして実業団チームへ入るというエリートコースをめざす夢を抱いていました。人類が月面着陸して(人間が月に行っちゃうんですよ?凄い事だったんですよ!)から、僅か3年後の頃の僕でした。その頃、一番仲のよかったバスケット仲間の小浜くんは今どうしているんだろう、、、、、?

 

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中学2年の教室ではだんだんギターを弾く人が増えていました。同じクラスの中にHくんがいたのです。かれはそこそこ勉強もできて頭のいい奴でした。そのHくんもギターを持ってきて、僕の前で弾いてくれて、うまいとは思わなかったけど、僕に少しの衝撃を与えてくれるには十分でした。そして僕は彼に、犬がしっぽをふるように「きみの家に遊びに行ってもいいかな?」とニコニコしながら言ったと思います。僕の家の近くだったのは知ってはいたけれど行ってみて「ああーいいな!」と思わされたのは彼の家族が住んでいる家と彼が住んでいる部屋、家が別になっていることでした。ようは、は・な・れ、ということです。タバコは吸い放題、ラジオ聴き放題、音楽聴き放題、ギター弾き放題、ずりせんカキ放題と僕には天国でした。「なんとすばらしい両親を御持ちで!」

 

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例のHくんの家に通い始めた頃、たまたま深夜のラジオ放送を聴いていたとき、「あした発売の新しいシングルです」と言うコメントの後にかかった曲が、チューリップの「心の旅」だったのです。その場で即「なんていい曲なんだろう!」と、口を開けたまま聴いていました...きっとあの日。次の日にすぐレコード屋さんへ行きましたが、確かそのレコード屋さんには置いてなくて、何日か後に「心の旅」が入っていたアルバムを手に入れたのでした。それからは次々にチューリップのアルバムを買いあさり、食べるがごとく何度も聴いては、Hくんの家にかよい、僕もフォークギターを買うぞ!そしてチューリップの曲を歌って弾きまくるぞ!よし次の日曜日に買いにゆくぞ、えっどこに?Hくんが「お茶の水へ行くと楽器屋さんがいっぱいあるよ」あっ、そうなのか!でいくら?えっ?そんなにするの?1万円!えっ、えーひえー!でなんとか親にたのんでお金を持ってお茶の水へたどりつき石橋楽器店に飛び込んだのでした。楽器屋のにいちゃん、店員「フォークギター?」、「あっ、ハイ」、店員「はじめて?」、「あっ、ハイ」、店員「予算は?」、「あっ、えっ、ええーと?」、店員「ギターにはね、かたい音のするヤツとソフトな音がするヤツと2種類あるんだけど」、「あっ、そうですか!えええ、じゃあ〜か、か、かたい音のするほうで」と、汗だくでやっと買うこととなりましたデス。

 

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早速、手に入れたギターを持ってHくんの”は・な・れ”の2階の部屋でコタツに入り、二人で向き合いながらチューリップの「心の旅」を、うた本を見ながらギターをひっかきまわし、お菓子を口にはこび、茶をすすり、たばこをのみ、にちゃにちゃのくちで歌い、笑い、二人とも黙ってコードブックをにらみつけ、そのうちコードを見つけた僕はまたギターをかきまわしていると、Hくんはいつの間にかギターを置き、僕のギターの音も気にせず、さっさと宿題をいつの間にか済ませ...馬のマークの参考書を見ながら?学業に入り込んでいくHくん...すると下の階からHくんのお母さんが「ご飯だよ、できたよ〜」と一声かけ...行ってしまう。その一声で、僕は帰る時間となる。

と、まあこんな毎日が続いている筈はなく、この頃の僕はまだ、バスケットのクラブ活動の絶頂期でHくんの家に行くときは当然バスケットは”ず・る・休みざんす〜!”ですから、ほとんどの毎日はバスケットの練習に明け暮れていた筈です。練習自体は、当然厳しいものでしたが、それは耐えられる体力がまだあったので大丈夫でしたが、それよりも辛く、厳しかったのは、先輩たちからの特訓?しごき、もしくは、”い・じ・め”ともいえる”おしおき”でした。それはパンツを脱がされて”いちもつ”をミンナに見られることや、訳もなく、校内の廊下で90度なる壁を背中にして、いかにも椅子があるがごとくすわる、「空気椅子」なるものでした。いろいろありましたが僕が一番辛かったのは、髪の毛を洗う、そうあの、シャンプーで顔面をこすりつけられたのはさすがに「地獄」でしたね。目はあけられないし、鼻血は出っぱなし、家に帰って親に「どうしたの?」と聞かれても「なんでもないよ」と言うしかなかったし...しかしながらその「特訓」なるモノのおかげで、そこそこの体力とそこそこの精神力と、僕は「絶対に人に対して、こんなことはしないぞ!」と、思わせてくれました。でもそんな先輩たちも、もっと凄い「特訓?(しごき)」なるものを受けていたそうですが?

こんなこともありましたね、中2になったばっかりの頃、僕は練習中に転んで左手首を骨折してしまいました。僕は折れた左手を右手で持ちながら、監督さんと接骨医院へ行き、「ほねつぎ」なる治し方で、左手を引っ張られ、ひねられ、脱脂綿にお酢をしめらせた湿布をして帰宅したら、その後すぐに先輩、同級生、後輩たち、すなわちバスケット部全員で僕の家まで来てミンナで「だいじょうぶか?だいじょうぶですか?」と、声をかけてくれましたね。わざわざ僕の家まで来て。かなりの人数でした、僕は、ありがたい、と思う気持ちよりも先に、気まずくて〜気まずくて〜恥ずかしくて、早く帰ってくれミンナ!転んだ自分が悪いんだ!そんな気持ちだったと思います。今になって思うと先輩達も「いいヤツじゃないか!」と思います。

 

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中2の同じクラスの友達と、チューリップのコピー・バンドなるものを作るに至るのです。しかも、あのHくんは、ドラマーになると言ってスネアとハイハットを購入してしまうのです。(今思うと言い出しっぺの僕のせいだ!)そして、何故かベースがいなかった?・・・・

たしかギターは僕とTくんだったと・・?

日曜日の教室にミンナで楽器を持ち込んで、リハーサルとも言えないような(絶対言えない)すざましい音楽だったと思います。でもこれだけは、はっきり言えること「楽しかった」。

中2もそうこうしているうちに押し迫る頃、クラスの男も女も音楽を聴く人がだいぶ増えてきて、「カーペンターズ」がどうのこうの?...バンバン?なんだそりゃ?・・陽水がふにゃふにゃ、、、、?「ビートルズ」がなんてったて、、、、?おれはチユーリップだ!バカヤロー!などと思いつつ何も言えずクラブ活動にやや力を入れつつ、たばこを吸い、恋愛を少し、ふられてまた違う人を好きになり(狭い学校内でようやるよね)、ズリセンも1日?回以上となり、万引きを憶えて悪の道。

そうそう、僕は中2の時に、人生最大のショック!(大トラウマ!)今も、いまだにこのトラウマを引きずっています!(バンド名じゃないよ!)

それは中2の秋のことです。バスケットの試合で、確か蕨の方の中学校での対抗試合、新人戦でした、僕は当然の如くスターティング・メンバーです。そして試合が始まり前半スタート、そして同じチームの人からボールをパスしてもらいボールを受け取りました。その瞬間、僕はボールを持ったまま、まったく動くことができなくなってしまい、からだはガチガチ、何をしたらイイのか分からなくなってしまい、自分でも「足が動かない!」...「俺は何をやっているんだ?」、かなりのパニック状態に陥り、今でもその状況はクッキリとハッキリ憶えています。するとだんだん周りの声が聞こえてきて「何やってんだ〜!た・か・は・しっ!」「パスをしろっ!」「自分で行けえっ!」「自分で行けっ!」「お前は、バカなんだよっ!」「お前はバカなんだよっ!」「お前っは、たかはしは、バカなんだっ!」と監督とコーチに怒鳴られているのにだんだん気がつき、慌ててパスをして、プレーが続き、その後すぐに僕はベンチに引っ込むこととなり、「自分では何もできない自分に気がついてしまい、いつも他人に依存していたのか?」...そこから始まりました。自分との戦いとも言えるような、長い旅です。今でもそんなことが、常につきまっとています。今では友達です!

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さあー、ついに僕も中学3年生となってしまいます。

そしてクラス変えとなり、あのHくんやTくんも違うクラスとなり、仲のよかった中2のクラスもちりちりとなってしまった。クラスが変わっても音楽は一緒にやろう!といったはものの、そこは中3、とりあえずくぎりの3年生、高校受験が最大の壁となってややはるか?向こうに見えているのです。みんなバンドどころではなくなります。

なんとなく集まらなくなり、僕もHくんの家にいかなくなり、よりいっそうに、バスケットに力を入れ、代々木第2体育館へ、大学や実業団のリーグ戦を見に行き、バスケットの勉強に力を入れていました。そしていくつかの練習試合をかせねていくうちにとんでもないチームと対戦してしまい、おのれの実力にきずかされてしまうのでした。

そのチームは全国大会に出場した同じ県内の学校で、選手の実力も天と地との差で、スピードがぜんぜんちがうし、もっと違ったのが選手達の親たちです。選手も親たちも、とってもあかぬけていると言うか、洗練されていると言うか、たかが練習試合に親たちが来てしまうのもどうかとおもいますが、親が持って来ている、持参して来ている、「弁当がすごい!」くだものあり、肉あり、米あり、豪華で親は美人ぞろいときてりゃ、「こりゃあー、ダメだっ、かなわんわっ!」、うちのチームはみんなそう思いました。

そしてだんだん僕はバスケットでの夢?を少しずつ、自分でも自分にきがつかないようにすてていったのです。

そんな中3の同じクラスにとんでもない奴と一緒になっていたのです!

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その彼は、杉本くん、(杉本圭司、現、某レコード会社社長)と言う人で生涯、墓の中まで付き合う?ことになるのです。杉本は僕が小学校2年の時に、都内から転校してきて、とってもなまいきな奴だともっぱらの噂でしたが、なぜか同じクラスにはならず、満を持してやっと中3で同じクラスとあいなったのです。

その杉本は当時すでにロックバンドをやっていて、日曜日など僕が体育館で練習をしていると、すざましい音がわが教室から聞こえてきて、練習の合間に見に行って度肝を抜かれたものです。杉本がギターをかきならし、田中くんがベースを弾き、河原くんがドラムをたたきまくり、僕からみると、初めてちゃんとしたバンドをみるおもいでした。演奏している曲も聴いたことがないものばかりで、これが洋楽かっ!これがロックかっ!なんだこいつら!なんてかっこいいんだっ!これなら女の子にもてるっ!俺もやりたい!と、静かに思うのでした。

そんな衝撃を何度かくりかえしていたあるとき、(当時僕はすでにエレキギターを手にしていた)杉本が「お前、エレキギター持ってんだって?」

「うん」

杉本「なにやってんだよ?」

「チューリップ」

杉本「チューリップ?そんなのロックじゃねーよ!」

「・・・・・・・・・・?」「・・・がちょお・・・・・ん!」

杉本「うちの田中がよう、受験でベースやめるんだけどお前ベース弾かねえか?」

(ベース?よくわかんないけど)

「うん、ああー、いいよ!」

と、ついにベースの道?に入りこんでいくこととなり、そして「杉本ロック講座」なる、杉本の家に通うこととなりました。

そして杉本の家へ行って、またまた衝撃を受けてしまうのです。

彼の家にはきっとものすごくレコードがあるだろうな?と思っていたのですが、それほどでもなくスピーカーの前に座り、「お前、これを聴かなくちゃ!」と、聴いたのが、Led Zeppelinの1stの「good times bad times」で、「うううわあー、なんじゃあこりゃ〜ぁっ!」、「こんな曲世の中にあるのお・・・!?」と、ド肝をぬかれ、そしてそのアルバムを全部聴かせてもらい、今度は「Johnny Winter And Live」なるアルバムを聴き、また「ななんじゃぁ、こりゃあっ!」、そしてお次はDeep Purpleの「Machine Head」を聴き、(ロックの王道ですわ!)たたきのめされてしまいました・・・・・・・・。

その後、「Rolling Stones」や「Free Live」、などを教わり、レコード屋さんへ通い、バスケットの練習をつづけ、ベースギターも少しずつ弾き、といってもベースギターを買うお金もないので田中くんが持っていたベースギターを田中くんから借りることになったのです。

 

******** 今回は番外編 ******************

さてさてベースの話しに移りたいのですが、あえてあまり記憶がない(わざと忘れようとして本当にわすれた!)のですが、中三までのいや〜な想い出を少しお話ましょう。

 

中二の頃に戻りますが、あの頃学校の帰りの途中に、そば屋、中華料理屋へ入って、カツ丼、玉子丼、親子丼、中華丼、ラーメン、などを食べるということがはやっていて(いっぺんに全部食べることじゃないですよ!ひとり一品のみ)ただそれだけのことなのですが(今思うときっと)おとなのマネをしたかっただけだと、、、思うのです。イヤな想い出とは、このことではなく、(すいません!脱線しました)中二の時同じクラスのヤツにTくんなるヤツからある時打ち明けられたのですが...

 

「このシャーペンいいだろう?このノートいいだろう?この消しゴムいいだろう?これ全部、万引きしたんだよ!」

たかがノートやシャープペンでしたが、物凄くうらやましい気持ちになり、僕は...

「どこの店なんだよ?俺もつれてってくれ!」と言ってしまい、ヤツはすぐに...

「いっしょに行こうよ!学校の近くのあの店だよ!」とすぐさま返事をして、その日に一緒に行くことになるのです。

 

で、始めは一軒だけの文具店だけでしたが、だんだんエスカレートして他の文具店やほかの町まで行って万引きをするようになり、そのうちに仲間もひとり、ふたりとふえて、10人ぐらいの集団になってしまったのでした。そうなると盗んだ品物の自慢合戦になってしまい、盗む物もだんだん高価な品物になってしまって、レコード、靴など、しまいにはわざわざ電車に乗って千葉の金町まで行ったり(なぜ金町なのか?)と、どんどんエスカレートしてしまったのでした。そうこうして中三でクラスかえで万引き仲間もバラバラになり、その万引き熱も沈静してとりあえず平和な学校生活を送っていたのです。

 

で、あのTくんは家庭の事情で引っ越してしまい、学校も別の学校に転校して、いなくなっていました。そして中三の春だったか?秋だったか?に修学旅行!楽しみでした!誰がタバコを持っていくのか?などと悪いさんだんをしたり。

しかし、しかしです!やはり悪いことはするもんじゃねえもので。チクられたのです。中二の時の万引きを!!ある日午前中の授業中に、たしか数学の時間に担任の先生が突然入ってきて、顔が真っ赤になって怒りをためこんだ表情で冷静をよそおった静かな声で「高橋、ちょっとこい!」

その瞬間クラス全員の顔がコンピューターじかけのロボットのように、いっせいに僕を見るために同時にいっせいにふりかえり...(このひと、なにをしでかしたんだろう?)という顔と目つきで僕を見ていました。呼ばれた瞬間は(なんだろう?)と思いましたが、廊下に出て担任の先生の顔を見て(まさか、あのことか?)とだんだん確信してゆき、(なぜバレたんだ?誰か捕まったか?)

「どうしよう?ああ〜どうしよう?、う〜ん、、、、、もうダメだ!」

そう、例の万引きの一件でした。静かな廊下を担任の先生とふたりだけで歩いていくうちに、母親、父親、塾の先生、Tくん、ほかの仲間たちの顔が、どんどん頭の中をめぐりだし、顔面は血のけがひいて真っ白で頭の中の脳みそは真っ赤か。そしてたどりついたのが学校内の職員室のとなりにある放送室で、せまい部屋の中に机をはさんで窓側に先生がすわり、ドアを背にして僕がすわりそして始まりました。

 

「おまえ、なんで呼ばれたかわかってるよな?」

下をむいたまま「わかりません!」

「なんでここにいるのか、わからんか?」

「わかりません、、、、」

「おまえ、万引きをやってるな?」

「(ギクッ!)、、、、、、やってません、、、、」。

僕は頭の中で(ああ〜、バレたか!まいったなあ〜、どしよう?、白状するか?でもな?仲間のことはいえないし、、、)と、のがれようか?白状しようか?頭の中はふりこ状態でどうしよう?どうしよう?でいっぱい!

で、先生から出たことばが...

「おまえ、おまえが中心になってやってるらしいじゃないか!おまえが親玉なんだってなあ〜っ!」

僕は黙って...

「なんで俺が親玉なんだ?誰がそんなことをいったんだ?」

さらに先生はつづけて...

「おまえ、修学旅行にタバコをもっていこうとしてたらしいな!」

さらに僕は黙って...(なんでそんなことまで知っているんだ?、ってことは、同じクラスのヤツがチクったな!!)ショック!(誰なんだ?誰なんだ?あいつか?あいつかな?)と頭の中はもうグチャグチャ!ダラダラ!はなみず、しょんべん、耳から脳ミソダラダラ、とどめにウンコもでちゃうよ!もう大変な思考回路状態でして、どのくらいねばったでしょう、30分以上は、しらぬ!ぞんぜぬ!でおしとうしていましたが、それはもう5〜6時間の長さに感じてましたが、担任の先生の口調もだんだんきつくなり、声もあらだて大きくなって、とどめに...

「3年?組の〜?だれだれが白状してたぞっ!?組の〜?も、?組の〜?!も!俺はなんでも知ってんだ!どの店で、何を盗んだかもだ!」とどなられ、、、僕は...

「ああ〜もうダメだ〜、、、みんな捕まっていたのか!」

 

そして白状していくのでした。まるまる2日間、授業にだしてもらえず(当然です)朝、登校して<きりーつ、礼!>をすますとすぐに呼び出され、朝から夕方まで、ずーっと放送室で聞き取り尋問を受けてもう、へとへと、ふにゃふにゃ、どろどろ、ずぶずぶ、ずたずた、ぼこぼこ、になり、夕方にだだっぴろい図書室に母親が呼び出され(ああ〜、ついにこの時がきたかあ〜、ガクッ!)となり、親はひたすら頭をさげ”どんなに小さくなっても入るところがありません!”ぐらい小さくなって僕のために、あやまり続けてくれ、悪業の数々を知らされ、少し震えていたと思います(すいませんでした)。そして最後に親の目の前で、担任の先生が...

「高橋っ、わかってるな!歯をくいしばれ」と、静かに言われ...

「はい」と静かに元気なく答え、親もわかったのでしょう、、、

「先生、ぶんなぐってやってください」と母親もさっして言い、そして先生の手のひらが飛んできました。その時の先生の顔はものすごい顔で、いいあらわしようがないほど、鬼の顔になって、ビダーンッ!!!

3メートルくらい?僕は吹っ飛び、その瞬間、僕は”おわった、これでおわった、、、”と意味もなく思い、ゆっくりと立ち上がり、なさけない思いがいっきにこみあげてきて、からだがすこしづつ震えてきて、その震えをがまんしようとすればするほど震えは、大きくなり、自分に”いいんだ、震えをがまんしなくていいんだ”と言い聞かせ、とその瞬間に、大きな、おおつぶの、涙をぼろぼろとこぼして、母親と先生の目の前で肩をふるわせて、はなみずをだらだらこぼし、涙をぼろぼろと流し泣きつづけました。

で、終わったと思いきや、母親とふたりで家路に着く途中で、おやじの顔が浮かんで(ああ〜、どうしよう〜?)、(きょうは何時ころおやじは帰ってくるかなあ?ああ、こわいよお〜!)と、また頭の中は”地獄!!”におちいったのでした。おやじとの対面については御想像におまかせします、、、、、、、。

 

それからの数日間は、想像のとおり大変な日々をすごし、自分の犯した罪を反省し罪悪感を持ちつづけて、楽しいはずだった修学旅行のことは、なにひとつおぼえていないのです。季節も、どこへどうやって行ったのかも。たしか、京都だったはずなんですが、、、思い出せないんです。ボケたらおもいだすかな?

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